弘法大師(空海)の修行時代の足跡を辿る、伊豆八十八ヶ所霊場をご案内します。
実際に八十八ヶ所霊場巡りを御希望の方は下記ホームページにて詳しく案内が掲載されております。
■伊豆八十八遍路 伊豆霊場振興会
〒410-2407
静岡県伊豆市修善寺75 03棟
℡:0558-99-9883
fax:0558-99-9883
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礼所番号 | 名称 | 所在地 | 由緒 |
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第1番礼所 | 嶺松院 (れいしょういん) |
伊豆市天城湯ヶ島町田沢129 | 発願寺です。 寺の言い伝えによれば、延暦年間(782~805年)に旅の途中であった弘法大師がこの地を訪れた際、多くの人々が難病に苦しんでいる様子を目にしました。 弘法大師はここに庵を建て、薬師三尊(薬師如来・日光菩薩・月光菩薩)・十二神将(薬師如来の眷属)を安置し、真言秘法百万遍を修法し、病気平癒を祈願して人々を苦しみから救ったとされています。 |
第2番礼所 | 弘道寺 (こうどうじ) |
伊豆市天城湯ヶ島町湯ヶ島269 | 天正年間(室町時代)に福寿庵と称し創建された古刹で、本尊は行基作と言われる聖観世音菩薩です。 何度かの火災により、詳細な縁起は焼失しています。 |
第3番礼所 | 最勝院 (さいしょういん) |
伊豆市中伊豆町宮上48 | 吾宝宗璨を開祖とし、1433年(永享5)に創建された歴史ある寺院です。 五哲と呼ばれた優れた門下僧らにより、門派の寺は1400を超えます。 |
第4番礼所 | 城富院 (じょうふいん) |
伊豆市中伊豆町城383 | 1542年(天文12)に最勝院七世笑山によって開かれた寺院です。 北條五代の祈願所でもありました。 1655年(明暦元)に火災で焼失、また1671年(寛文11)に山崩れで被災しましたが、1681年(延宝9)に再興され、現在に至っています。 |
第5番礼所 | 玉洞院 (ぎょくどういん) |
伊豆市修善寺町牧之郷679 | 1974年(昭和49)に建築された本堂前には、枝垂れ桜の老木があります。 伊豆八十八ヶ所霊場の他、駿豆両国横道三十三観音霊場の第5番札所でもあります。 また末寺であった合掌寺を合併したことにより、伊豆中道三十三観音霊場の第31番札所にもなっています。 |
第6番礼所 | 金剛寺 (こんごうじ) |
伊豆市修善寺町大沢248 | 沿革等は不明です。 |
第7番礼所 | 泉龍寺 (せんりゅうじ) |
伊豆市修善寺町堀切343 | 本堂前の踏み石の下に、先代の住職が四国八十八ヶ所霊場より持ち帰った土が埋められていて、その上でお参りできるようになっています。 本堂に向かって左手にある釈迦堂では寝釈迦仏に参拝できます。 |
第8番礼所 | 益山寺 (ましやまじ) |
伊豆市修善寺町堀切山田760 | 山の上にある寺院で、参詣には30分ほどの坂道を上る事となります。 参道脇の西国三十三観音をはじめとし、境内にも多くの石仏が祀られています。 県指定の天然記念物である大楓と、市指定の大銀杏が本堂前に聳えています。 伊豆横道三十三観音の第6番札所でもあり、1773年(安永2)の御詠歌が残されています。 |
第9番礼所 | 澄楽寺 (ちょうらくじ) |
伊豆の国市大仁町三福638 | 伊豆八十八ヶ所霊場の中でも歴史のある寺院です。 桂谷二十一ヶ所巡礼の第9番、伊豆中道観音霊場の第27番札所でもあり、それぞれ1915年(大正4)2月と1902年(明治35)9月に書かれた御詠歌が残っています。 また、至近の龍源院の枝垂れ桜が美しく、春には多くの人が訪れます。 |
第10番礼所 | 蔵春院 (ぞうしゅんいん) |
伊豆の国市大仁町田京949-1 | 1438年(永享10)に起こった永享の乱で、主君の足利持氏を死に追いやったことに責任を感じた関東管領の上杉憲実が、菩提のために建立した寺院です。 また、憲実から寺院建立を懇請された宗能禅師がその造立の際に、この地に棲んでいた悪龍を鎮めたという龍神伝説が残ります。 1947年(昭和22)に全山の七堂伽藍を焼失しましたが、1978年(昭和53)11月に本堂が再建されました。 |
第11番礼所 | 長源寺 (ちょうげんじ) |
伊豆の国市韮山町中492 | トイレの神様である烏蒭沙摩明王(うすさまみょうおう)を祀るお堂があり、毎年8月25日には例祭が行われます。 8月から9月にかけて、境内の百日紅が美しく咲き、参拝の人々の目を楽しませます。 |
第12番礼所 | 長温寺 (ちょうんじ) |
伊豆の国市長岡町古奈13 | 1562年(永禄5)、僧・瓶山により開創されました。 本尊の薬師如来は、かつてこの地近くで討ち死にした豪族が守護仏として常に護持していたものと言われています。 その後衰微していたが、1620年(元和6)に再興され、曹洞宗として開山しました。 |
第13番礼所 | 北条寺 (ほうじょうじ) |
伊豆の国市長岡町南江間862 | 源頼朝の正室・北條政子の弟で ある北條義時が創建した寺院です。 |
第14番礼所 | 慈光院 (じこういん) |
伊豆の国市韮山町多田937 | かつては真言宗の無住寺院だったが、1510年(永正7)に曹洞宗に改宗し、再興されました。 |
第15番礼所 | 高岩院 (こうがんいん) |
伊豆の国市韮山町奈古谷68 | 五山十刹のひとつとされた国清寺に隣接し、かつては79あった塔頭のうちの一寺です。 |
第16番礼所 | 興聖寺 (こうしょうじ) |
田方郡函南町塚本431 | 延徳元年、南渓によって創建された寺院という以外の沿革は不明です。 |
第17番礼所 | 泉福寺 (せんぷくじ) |
三島市長伏66 | 火災により焼失したため、創立年代等は不明です。 しかし、初めは元屋敷にあったものを1206年(元久8)に中ノ坪に遷移し、更に1742年(寛保2)に現在地へと移転したと伝えられています。 |
第18番礼所 | 宗徳院 (しゅうとくいん) |
三島市松本431 | 延暦年間(901~902年)に空海によって創建されました。 伊豆に流刑されていた源頼朝が挙兵後、鎌倉に入るまでの100日間、本尊の延命地蔵菩薩を祈願佛として詣でたと云われています。 後に、境内で自刃した甲斐武田の2人の家臣を弔うために、荒廃した堂宇を再興し、その際に真言宗から曹洞宗へと改宗しました。 1814年(文化11年)8月に火災で寺宝や過去帳などが焼失しましたが、本尊の延命地蔵菩薩は無事でした。 |
第19番礼所 | 蓮馨寺 (れんけいじ) |
三島市広小路町1-39 | 1289年に、浄土宗の僧である星誉によって開創された由緒ある寺院です。 しかし、豊臣秀吉の小田原征伐の際の三島焼き払いで焼失した他、類焼や震災、明治期の大火による火災を重ね、沿革は不明となっています。 |
第20番礼所 | 養徳寺 (ようとくじ) |
田方郡函南町平井1126 | 1387年に用固という僧によって開創されました。 1789年(寛政元)10月に火災によって堂宇や記録などが全て焼失したため、詳細な沿革は不明となっています。 |
第21番礼所 | 龍澤寺 (りゅうたくじ) |
三島市沢地326 | 1761年3月に白隠によって開山したとされますが、それ以前から臨済宗の寺院として在り、空海によって開創とも伝えられています。 一時期荒廃したものの、大正期に山本玄峰によって修行のための寺として再興されました。 |
第22番礼所 | 宗福寺 (そうふくじ) |
三島市塚原新田69-1 | 1590年に豊臣秀吉が小田原を攻めた際、出城となった山中城で出た戦没者を追悼するために創建された寺院です。 |
第23番礼所 | 東光寺 (とうこうじ) |
熱海市日金山962 | 271年(応神2)に伊豆山の浜辺に現れた不思議な光る鏡が、西の峰に消えました。その様子は日輪のように見えたことから「日が峰」転じて「日金山」となりました。 2年後の273年に松葉仙人がこの鏡を祀り、祠を建てたことが開山の起源といわれています。 現在本尊とされている延命地蔵菩薩は、源頼朝に依るものです。 |
第24番礼所 | 般若院 (はんにゃいん) |
熱海市伊豆山371-1 | 大師堂には、弘法大師自ら刻んだとされる等身大の大師像が安置されています。 また、境内には足湯があります。 |
第25番礼所 | 興禅寺 (こうぜんじ) |
熱海市桜木町5-8 | 藤原藤房が出家し、名を授翁と改め、この地を訪れた際に創建されました。 本尊の十一面観世音菩薩はこの授翁の護身仏であると云われています。 その後、一旦寺院は荒廃しましたが、寛永年間に再興されました。 |
第26番礼所 | 長谷寺 (ちょうこくじ) |
熱海市綱代542 | 行基上人が網代の屏風ヶ岩で修行していた時、付近に漂着した霊木から観音像を彫り、洞窟の中に安置したと云われています。この霊木が奈良県の長谷観音像を彫った木の末木であったことから、奈良・鎌倉の長谷観音と共に「一本三体観音」とされています。 古くは真言宗に属していたと伝えられています。 |
第27番礼所 | 東林寺 (とうりんじ) |
伊東市馬場町2-2-19 | 開創当時は久遠寺という名の真言宗の寺院でした。 東林院殿寂心入道という祐親の法名にちなみ、現在の寺院名に改称、1538年には曹洞宗に改宗しました。 |
第28番礼所 | 大江院 (たいこういん) |
伊東市八幡野6-1 | かつては真言宗の寺院で、正式名称は圓光庵蓮台寺、俗称が大江庵でした。 1540年(天文9)に、最勝院十二世台翁宗銀によって曹洞宗に改宗、名も伊雄山大江院と改称しました。 |
第29番礼所 | 龍豊院 (りゅうほういん) |
賀茂郡東伊豆町大川278 | 創建当時は真言宗の寺院でした。 慶長年間(1596~1615年)に、最勝院七世和尚を開山とし曹洞宗に改宗しました。 1879年に火災により全焼しましたが、1884年に再建しました。 |
第30番礼所 | 自性院 (じしょういん) |
賀茂郡東伊豆町奈良本98 | 室町時代の1504年(永正元)に祖元によって開創され、1579年(天正7)に曹洞宗の法治となったと伝えられています。 1870年に火災により堂宇などが全焼したため、詳細な沿革は不明となっています。 |
第31番礼所 | 東泉院 (とうせんいん) |
賀茂郡東伊豆町白田76 | 北条氏直の外臣であった金指筑後守が開山したもので、元は真言宗の寺院でした。 この金指筑後守が祀った本尊の聖観世音菩薩は役小角の作と伝えられています。 後に曹洞宗へと改宗しました。 |
第32番礼所 | 善應院 (ぜんのういん) |
賀茂郡東伊豆町稲取400 | 開基時は真言宗高野山の末派で稲昌寺と称していました。 1616年(元和2)に曹洞宗に改宗し、その際に寺院名も善應院と改められました。 |
第33番礼所 | 正定寺 (しょうじょうじ) |
賀茂郡東伊豆町稲取833-1 | 創建当時は来迎庵という真言宗の寺院でした。 1598年(慶長3)に華山和尚により浄土宗に改宗しました。 1670年(寛文10)には、周辺を襲った大津波により寺院も大きな被害を受け、本尊だけがわずかに残ったと伝えられています。 |
第34番礼所 | 三養院 (さんよういん) |
賀茂郡河津町筏場807-1 | 創立年代は不明ですが、開山の竺仙宗僊が1511年(永正8)に没していることから、それ以前と推測されます。 開山当時は千手院という寺号でした。 後に、豊臣秀吉が小田原城を攻めた際、下田の鵜島城も攻撃され、時の城主であった清水上野介は降伏し、妻と息子とともにこの千手院に身を隠しました。 この3人を養いおいたことから三養院と改めたと伝えられています。 |
第35番礼所 | 栖足寺 (せいそくじ) |
賀茂郡河津町谷津256 | 1319年に、徳瓊覚照によって開山された寺院です。 現在の本堂などは、明治19年に5年の歳月をかけて、再建されたものです。 また、日本昔ばなしにも登場した河童寺としても有名で、村人に捕まった河童を和尚が助けたお礼に河童が持って来たといわれるカメが今でもお寺にあります。 http://nipponmukasibanasi.seesaa.net/article/384509035.html https://www.youtube.com/watch?v=DA5sOKHbL60 |
第36番礼所 | 乗安寺 (じょうあんじ) |
賀茂郡河津町谷津413 | 慶長年間(1596~1615年)に縄地に開山された寺院で、後に現在地へと移されました。 |
第37番礼所 | 地福院 (ちふくいん) |
賀茂郡河津町縄地430 | かつては玉田山金生院という真言宗の寺院でしたが、1600年(慶長5)に曹洞宗の寺院として再興されました。 縄地金山が栄えた際に、近隣にあった9つの寺院のうちの一ヶ寺で、金山衰退後にのこり8つの寺院は移転や廃寺しましたが、地福院だけはこの地に残りました。 |
第38番礼所 | 禅福寺 (ぜんぷくじ) |
下田市白浜951 | 元々は観世音菩薩を祀る真言宗の小さな庵でした。 貞和年間(1345~1350年)以来衰微していましたが、曹洞宗となり寺号も「禅居庵(または禅教院)」としました。 さらに後に、伽藍を建立し寺名も「禅福寺」と改称し、今に至ります。 |
第39番礼所 | 観音寺 (かんのんじ) |
下田市須崎615 | かつては須崎の別の地にあった真言宗の寺院で、暘谷院という寺号でした。 1615年(元和元)に、曹洞宗に改宗し、現在の寺院名となりました。 その後、火災に遭い、1747年(延享4)に現在地に遷移しました。 |
第40番礼所 | 玉泉寺 (ぎょくせんじ) |
下田市柿崎31-6 | 天正年間(1573~1592年)以前は真言宗の小さな庵でした。 1848年(嘉永元)3月に現在地に堂宇が完成し、山号を瑞龍山としました。 |
第41番礼所 | 海善寺 (かいぜんじ) |
下田市一丁目14-18 | かつては河津町の縄地に創立された真言宗の寺院でした。 その後、下田市本郷に遷移し布根山天気院と称しましたが、僧量誉によって浄土宗へと改宗となりました。 後に現在地に移り、富厳山海善寺と改めました。 |
第42番礼所 | 長楽寺 (ちょうらくじ) |
下田市三丁目18-10 | 以前は薬師院長楽寺と名で別の地にあったものを、1555年(弘治元)に僧尊宥が現在地に移しました。 その後明治初年の廃仏毀釈によって一旦は廃寺となりましたが、宝光院長命寺と併合し再興しました。 |
第43番礼所 | 大安寺 (たいあんじ) |
下田市四丁目2-1 | 初めは小田原にあった寺院です。 天正年間(1573~1591年)に再興され、近世初頭に現在地に移りました。 |
第44番礼所 | 広台寺 (こうだいじ) |
下田市蓮台寺140 | かつては桂昌庵という真言宗の小さな庵でした。 1612年(慶長17)4月21日に現在地に移り、曹洞宗に改宗、名も湯谷山廣台寺と改めました。 |
第45番礼所 | 向陽院 (こうよういん) |
下田市河内289 | 1402年(応永9)に天台宗の阿闍梨が諸国行脚で河内を訪れ、地蔵密庵と号した草庵を結び、虚空蔵菩薩と地蔵菩薩を奉ったことが草創です。 |
第46番礼所 | 米山寺 (よねやまじ) |
下田市箕作 | 733年(天平5)にこの地を訪れた行基が「寺を建てるのに良い所である」と言ったことから、人々がその意に従い、程なくして寺が建てられたと伝えられています。 本尊の薬師如来も行基の作で、同年10月20日に入仏点眼し安置されたといいます。 |
第47番礼所 | 龍門院 (りゅうもんいん) |
下田市相玉38 | 1099年(康和元)6月24日、保月嶽頂上の老松に光を放つ仏像が発見され、龍が降臨すると言われていたこの地に庵を建てて安置することとなりました。 後に行脚の僧が「この像は青面金剛明王である」と言い、奉るようになりました。 当時は真言宗の寺院でしたが次第に衰退し、1593年(文禄2)に太梅寺四世法山宗禅が復興して曹洞宗に改めました。 |
第48番礼所 | 報本寺 (ほうほんじ) |
下田市加増野433-1 | 1323年(元享3)に富貴野山宝蔵院(第81番札所)に向かっていた真言宗成就院の阿闍梨が、風岩峠付近でこの地が霊地であると感じ、1326年(嘉暦元)3月に婆娑羅山神護寺として開堂しました。 しばらく無住の時期がありましたが、臨済宗として再興しました。 |
第49番礼所 | 太梅寺 (たいばいじ |
下田市横川342 | 1046年(寛徳3)に行脚中の真言宗の僧が、この地に至った際に求めていた霊地だと感じ、人々から浄財を集めお堂を建てました。 明星山満珠寺と名づけ、地蔵尊を本尊として奉りました。 寺院の裏山には寺の鎮守として、稲荷神社が勧請されました。 後に寺名を改めて太梅山深居庵とし、臨済宗に改宗しました。 更にその後の1557年(弘治3)には曹洞宗に改宗し寺院名は深居山太梅寺となり、1852年(嘉永5)に現在の山号に変わったと伝えられています。 |
第50番礼所 | 玄通寺 (げんつうじ) |
賀茂郡南伊豆市一条456 | かつては下田市との境にある小松野山の頂にありましたが、何度もの火災に遭い記録が焼失しているため、創建年等は一切不詳となっています。 しかし開山の玄翁心昭が1396年(応永3)に入寂していることから、草創はそれ以前と考えられます。 1911年(明治44)に庫裏が、翌年に本堂が現在地に移されました。 |
第51番礼所 | 龍雲寺 (りゅううんじ) |
賀茂郡南伊豆町青市143 | 1284年(宝治2)に真言宗の寺院として創建されました。 永禄年間(1558~1570年)に曹洞宗に改宗となりました。 |
第52番礼所 | 曹洞院 (そうとういん) |
賀茂郡南伊豆町大賀茂89 | 幾度かの火災のため記録が焼失してしまっていて、詳細な沿革は不明となっています。 かつては弘法大師修行の霊蹟で大師山とも言われる真言宗の大刹でした。 戦乱で焼失した後、1525年(大永5)に七堂伽藍を再建、その際に曹洞宗へと改宗しました。 1593年(文禄2)に山火事で類焼しましたが、1596年(慶長元)に再建されています。 |
第53番礼所 | 宝徳院 (ほうとくいん) |
下田市吉佐美1667 | 858年(天安2)、中国の長安にある青龍寺で学んだ僧が帰国する際、千体仏を積んだ船で遭難し、吉佐美の浜に打ち上げられました。 その千体仏を安置するために立てた庵が寺の始まりと伝えられています。 源頼朝が崇敬したという本尊の不動明王も、この千体仏の一体と云われています。 |
第54番礼所 | 長谷寺 (ちょうこくじ) |
下田市田牛156 | 天平年間(729~749年)に行基によって開創されたと伝えられています。 元は真言宗古義派に属し、西老山昌善寺と称しましたが、1545年(天文14)に現在の浦岳山長谷寺と改称しました。 1655年(明暦元)に曹洞宗に改宗しました。 |
第55番礼所 | 修福寺 (しゅうふくじ) |
賀茂郡南伊豆町湊662 | 奈良県奈良市の大安寺の別院として開創された石門寺という寺院でした。 所在地は開創時は南伊豆町青市に、その後手石、現在地である湊と変遷しました。 その際、名を飯盛山修福寺と改め、曹洞宗に改宗しました。 |
第56番礼所 | 正善寺 (しょうぜんじ) |
賀茂郡南伊豆町手石165 | 古くは真言宗の寺院で詳善寺と称していました。 寛永年間(1624~1644年)に修福寺五世嶺屋秀雪が開山となって曹洞宗に改宗し、現在に至ります。 |
第57番礼所 | 青龍寺 (せいりゅうじ) |
賀茂郡南伊豆町手石329 | 享保初期の火災で記録の一切が焼失しているため詳細は不明であるが、1225年(嘉禄元)開創と伝えられています。 現在の本堂は1720年(享保5)に建てられたものです。 |
第58番礼所 | 正眼寺 (しょうげんじ) |
賀茂郡南伊豆町石廊崎 | 1351年(北朝暦観応5)に真際によって開かれた臨済宗の寺院です。 至近の長津呂港は江戸時代に賑わい、近くにあった建長寺派の守源寺が栄えたのに対し、正眼寺が衰退していたのを獲麟が再興したと伝えられています。 1890年(明治23)に守源寺は災害により廃寺となり、正眼寺に併合されました。 |
第59番礼所 | 海蔵寺 (かいぞうじ) |
賀茂郡南伊豆町入間949 | 古くは仲木地区にあったと云われる天台宗の寺院でしたが、天文年中(1532~1555年)に現在地に遷移し英仲亀和尚を開山として臨済宗建長寺派に改宗しました。 |
第60番礼所 | 善福寺 (ぜんぷくじ) |
賀茂郡南伊豆町妻良505 | 幾度かの被災の末、詳細な記録は不明となっていますが、1628年(寛永5)に入寂した了快を中興の祖としています。 天保年間(1830~1844年)に本堂・庫裏が再建されました。 |
第61番礼所 | 法泉寺 (ほうせんじ) |
賀茂郡南伊豆町立岩1213 | かつては真言宗の小庵でした。 1662年(寛文2)に最福寺の宝山順和尚が再興して曹洞宗の寺院となりました。 |
第62番礼所 | 法伝寺 (ほうでんじ) |
賀茂郡南伊豆町二条 | 当初は真言宗の寺院で、別の地にありました。 寛永年中(1624~1644年)に現在地に遷し、臨済宗となりました。 |
第63番礼所 | 保春寺 (ほしゅんじ) |
賀茂郡南伊豆町加納370 | 草創当時は真言宗の寺院でした。 創立した山本長門守道政が1507年(永正4)に没していることから、草創はそれ以前と推測されます。 後に曹洞宗に改宗されました。 |
第64番礼所 | 慈雲寺 (じうんじ) |
賀茂郡南伊豆町下賀茂433 | 当初は慈雲院という真言宗の寺院でした。 一時衰微していましたが、再興され現在に至ります。 |
第65番礼所 | 最福寺 (さいふくじ) |
賀茂郡南伊豆町上賀茂301 | 1500年(明応9)に草創された律院で、当初は普済庵という名称でした。 後に律院を改めて曹洞宗に改宗し、寺号も最福寺にし、現在に至っています。 |
第66番礼所 | 岩殿寺 (がんでんじ) |
賀茂郡南伊豆町岩殿 | 976年(貞元2)に僧継雲によって開創され、1273年(文永10)に阿闍梨丁快によって中興されました。 北條氏の庇護を受けた寺院でしたが、豊臣秀吉が小田原城を攻めた際に争乱に巻き込まれ炎上し、そのまま衰退の道をたどりました。 |
第67番礼所 | 安楽寺 (あんらくじ) |
賀茂郡南伊豆町上小野76 | かつては真言宗で、法境山祥安寺という寺院でした。 1555年(弘治元)に曹洞宗(第52番札所)四世花翁宗菊を開山として曹洞宗に改宗し、今に至ります。 |
第68番礼所 | 東林寺 (とうりんじ) |
賀茂郡南伊豆町下小野414-1 | 文録年間(1592~1596年)に開創された小さな庵でした。 1600年(慶長5)に堂宇が建立されました。 |
第69番礼所 | 常石寺 (じょうせきじ) |
賀茂郡南伊豆町蛇石80 | 慶長年間(1596~1615年)に慈雲寺(第64番札所)四世関翁全鉄によって開創されました。 |
第70番礼所 | 金泉寺 (こんせんじ) |
賀茂郡南伊豆町小浦901 | 1644年(正保元)に超傳によって創立されたということ以外不明です。 |
第71番礼所 | 普照寺 (ふしょうじ) |
賀茂郡南伊豆町伊浜1289 | 793年(延暦12)に地元の漁師の網にかかった観音像を祀った小庵を作ったことが始まりとされています。 寛正年間(1460~1465年)に盛賢が再興しました。 |
第72番礼所 | 禅宗院 (ぜんしゅういん) |
賀茂郡松崎町石部74 | 創建年代は不明ですが、かつては善瀲院という名で、別の地にありました。 1668年(寛文8)以前に曹洞宗に改修し、現在地に遷移したと推測されています。 |
第73番礼所 | 常在寺 (じょうざいじ) |
賀茂郡松崎町岩科南 | 古くから小さな釈迦堂があったところに、1429年(永享元)に無範という僧が留まり、喜捨によって堂宇を建立し、常在寺という臨済宗に属する寺を開きました。 |
第74番礼所 | 永禅寺 (えいぜんじ) |
賀茂郡松崎町岩科北1312 | 1167年(仁安2)に文覚上人がこの地を訪れた際、持っていた釈迦如来像を安置して堂宇を建てた、永善寺という真言宗の寺院が始まりです。 後に再興された折に、永禅寺と改称し、臨済宗となりました。 |
第75番礼所 | 天然寺 (てんねんじ) |
賀茂郡松崎町岩科北502 | 1468年(応仁2)に雲誉文公によって創建されました。 しかし、1705年(宝永2)8月に大洪水によって流失、4年後の1709年に再建された。 |
第76番礼所 | 浄泉寺 (じょうせんじ) |
賀茂郡松崎町松崎43 | 1414年(応永21)に及歎によって開かれた寺院です。 1648年(慶安元)には徳川家光による御朱印状を受けて、1758年(宝暦8)には増上寺の交代寺となりました。 |
第77番礼所 | 円通寺 (えんつうじ) |
賀茂郡松崎町宮内130 | 古くは弘法大師作と云われる観音像を安置したという、妙智山円通寺という名前の真言宗の小庵でした。 その後、東林友丘によって臨済宗に改宗となりました。 当時は那賀川の岸辺に沿って堂宇が建てられていましたが、今より200年ほど前に現在地に遷移しました。 その際、1179年(治承3)に僧文覚がこの寺院に滞在していたことから、山号が文覚山となりました。 |
第78番礼所 | 禅海寺 (ぜんかいじ) |
賀茂郡松崎町江奈44 | 寺の由緒書きに依ると、1192年(建久3)に栄西禅師がこの地を訪れ一宇を造り、祥雲山禅海寺と名づけたとありますが、住職に依ると栄西禅師は勧請されて始祖になったもので、実際は弟子の建立とのことです。 後に1252年(建長4)にこの寺院の本尊釈迦如来を夢に見た鎌倉幕府の6代将軍・宗尊親王と執権・北条時頼が堂宇を再建し、寄進をしたために、宗尊親王が開基とされています。 |
第79番礼所 | 建久寺 (けんきゅうじ) |
賀茂郡松崎町建久寺 | 建久年間(1190~1198年)に創立された寺院です。 後に安山という僧が再興、那賀村にあったものを現在地に遷移し、檀徒も移住したと云います。 しかし、1507年(永正4)に焼失し、詳細は不明となりました。 |
第80番礼所 | 帰一寺 (きいちじ) |
賀茂郡松崎町船田39 | 1301年(正安3)に開かれた寺院で、当初は帰一庵と称していました。 後に帰一寺と名称を改めます。 1848年(弘化5)に現在の本堂が建立されました。 |
第81番礼所 | 宝蔵寺 (ほうぞうじ) |
賀茂郡西伊豆町大沢里 | 800年(延暦19)に、27歳であった弘法大師が伊豆で修行中に仁科を訪れた際、森の中で六条の光を放つ六本の巨木を見つけました。 大師はこれを六道衆生の苦しみを救済する地蔵菩薩に縁のあるものだと考え、ここを富貴野山地蔵金剛法蔵密院と名づけました。 後に57歳となった830年(天長7)に再びこの地を訪れ、庵を修復し、お堂を建て、密法修行の地としました。 |
第82番礼所 | 慈眼寺 (じげんじ) |
賀茂郡西伊豆町堀坂 | 始祖といわれる復岩が1494年(明応3)入寂であることから、開山はそれ以前と思われます。 1644年(正保元)に再興されました。 |
第83番礼所 | 東福寺 (とうふくじ) |
賀茂郡西伊豆町中24-2 | 1233年(天福元)に仁科字浜に創建された寺院で、当初は天福寺と言いました。 1309年(嘉元2)に移転、更に1395年(応永2)に再興された際に真言宗から臨済宗へと改宗されました。 後に現在地に遷移し再建した際に、寺号を東福寺と改めました。 |
第84番礼所 | 法眼寺 (ほうげんじ) |
賀茂郡西伊豆町二科860-1 | 当寺院。かつては仁科の安城山麓にあった法眼庵という小さな庵でしたが、海濤により大破、荒廃しました。 享保年間にこの地を修行で通りかかった僧・幽厳が法眼庵と堂ヶ島の走嶋山長平寺の荒廃を嘆き、二院を合併して正島山法眼寺としました。 |
第85番礼所 | 大聖寺 (だいしょうじ) |
賀茂郡賀茂村安良里315 | 開祖は泰庵阿闍梨で、真言宗に属する寺院でした。 後に臨済宗の高岳妙本が授宝山大聖寺とし、臨済宗に改宗しました。 |
第86番礼所 | 安楽寺 (あんらくじ) |
伊豆市土肥711 | 663年にこの地を訪れた行基が自ら薬師如来を彫り、医王山大泉寺としたのが始まりであると言い伝えられています。 1534年(天文3)に現在の寺域が整えられました。 |
第87番礼所 | 大行寺 (だいぎょうじ) |
沼津市戸田926 | 1576年(天正4)に三誉上人によって開かれました。 火災で詳細な記録は焼失しています。 |
第88番礼所 | 修禅寺 (しゅぜんじ) |
伊豆市修善寺964 | 807年(大同2)に弘法大師によって開かれ、真言宗の寺院として栄えた後、鎌倉時代からは臨済宗となりました。 1489年に隆渓繁紹により曹洞宗に改宗されました。 1863年(文久3)に火災によって堂宇を焼失しましたが、数年をかけて再建されました。 |